Message代表者メッセージ

2018.04.16

#81「大学とは」

今回より、弊社の経営理念であり、行動指針である「大学」について論じて行きたい。

大学とは、「修己治人の学」=自分自身をますます修めていくとともに、他者にも良い影響を及ぼすことができるように学んでいくことで「大人(たいじん)になるための学」である。
大人とは、日々自分の身を修め、更に世のため人のために尽くしてやまないような人物をいう。その大人となるのに最も手近な古典が大学であり「修己治人」の根本原理を示した学問である。そしてこの「修己」と「治人」とが離れることなく固く結びついてりっぱに果たされるべき、同時に実践していくことが、即ち「己を修めて人を治める」こととなる。

実際には、孔子の教えが書かれている本であるが、孔子の教えを曾氏が実行して、これは真実だと思い、孔子を代行してつくった本である。1番入りやすい孔子の入門書であり、同時に儒教の結論の書でもある。

2018.04.1

#80「誠」とは自分も他人も欺かないこと

忠義の「忠」は中の心という文字だが、本来、自分に対するもので「自分が自分を欺かない」という意味がある。そして何かをするときには自分の全力を尽くす。全力を尽くして自己を偽らないこと。そこから全力投球することを忠というようになる。自分だけでなく、人に対しても全力投球をする。

これに対して、「信」というのは他人に対するもので、自分がいったことは必ず守る。嘘偽りのないこと、二枚舌を使わないこと、これを「信」という。
自己に対しては「忠」、人に対しては「信」これはどちらも「誠」ということである。

2018.03.31

#79「維新と革命」

物が改まるのには、大きく分けると「革命」と「維新」の2つがある。「革」は「改まる」という意味で、「命を改める」というのは根本からやりかえること。それが革命、レボリューションである(命=働き) それに対して「維新」というのは、だんだんに日々変化していく。日に新たに、また日に新たにして、だんだん変化していくのを維新という。病気でいえば、「維新」は内服療養で徐々に治して行くやり方であり、これに対して「革命」は外科手術である。外科手術は患部をすべて取ってしまうために治りが早いが、必ず痛みや後遺症を伴うことが多い。
このことを個人の場合でいうならば、常に注意を怠らず、「其の命維れ新たなり」という健全な生活をしているのならば、大それた、革命的な大手術をしなくてもよい。
つまり、日々、意識して新しいことに取り組んで、少しの変化を起こして継続すれば、その結果、大きな変革になることを、リーダーは知るべきである。そのためにもリーダー自らが自己維新を心掛けることである。

2018.03.29

#78「新」とは創造変化していくこと

「新」という文字は、立ち木に労力を加えて切り倒して木材にすることが本来の意味である。
そのように変化創造していくことを「新」と呼んだ。つまり、世の中は絶えず変化して止まるところはないから「その変化に応じていくこと」そして「絶えず新たなる創造を繰り返していくこと」が大切である。
「自ら新たにする」とは、自ら創造することを失わないように常に創造するような人を作ることが大切である。人から強制されて仕方なく改めるのではなくて、自ら創造して改めるような人材にする。上に立つリーダーは、部下やメンバーにやる気を起こさせるようにしなくてはいけない。上からの指揮命令を受けなくても、自分から創造性を発揮するような部下やメンバーにするということである。

「作」は「つくる、おこる、おこす」という意味があり「作新」は、「新たにつくる、おこる、おこす」意味である。つまり「新しい」とは「常に生長し続けているもののみがもつことの出来る姿なのである。起業家や事業家、リーダーは、この「新」という言葉の意味を忘れてはならない。

2018.03.28

#77「物の本末、事の終始」

物の本末とは何か?
木に例えれば、根があり、幹があり、枝、葉がある。本は、根であり見えないが、末は、幹や枝や葉や花で外に出てきて見えるもの。人間も生まれた時から本末があり、本は徳性であって、知能や技能は、末となる。だから人間をつくるには、本になる徳性をしっかり養っていかなければならない。先ずは、徳性を涵養すること。社会生活を営んでいく上においては道徳・習慣というものが本となる。それに合わせて知能・技能というものを育てていく。
これが、逆、つまり、本が知能・技能で、末が徳性になると本末転倒ということになり、人物としては、大成できない。真のリーダーは、物事の本末を正しく捉えて、判断し、実践していかなければならない。

事の終始とは何か?
我々の生涯にも始めと終わりはずっとある。人生いろいろやることがある中で、何を先にし、何を後にするか自ら判断をして順序をつけて、それを実行する。そうすれば人の道から離れることはない、あるいは人の道を踏み外すことはないということになる。
仕事を進める上において、自分の使命、役割責任から鑑みて、最も重要なことは何か?を物事の本末と終始を考え続けていれば、間違うことはない。

2018.03.19

#76「謙虚に学ぶ」

コップに水が一杯に入っているのに、特上のお茶を注いでも溢れるだけで入らないし注げない。古い考えややり方を捨てないと新しいやり方は学べないし、吸収できない。
自分の心にある古いものを空けて心をからっぽにすることを「謙虚」という。自分がこれまで持っていたものを捨てて、無にしてしまうこと。人間は謙虚にならなければ、真理は学べないのである。
「謙虚」とは、頭が低くて、物腰が柔らかいことだけを言うのではなく、虚心坦懐(#10に詳細説明あり)に、あるがままに受け止め、受け入れる度量のある人を謙虚に学べる人と言える。

学は及ばざる如くするも 猶之をうしなわんことを恐る
「学問に終わりはない」として学んでいるが、この心掛けをなくしてしまうことが恐ろしい

2018.03.18

#75「過ぎたるは猶お及ばざるが如し」

物事はなんでもやり過ぎたものは、表面上は盛大に見えるけれども、とくに評価するほどのものでもない。「目標に到達しない」のと同じようなものである。
よく遣り手だと言われて鼻高々の人がいるが、遣りすぎると必ずその陰に、無理があったり、人を傷つけたり、隙が出来て、破綻の原因となる。やり足りない(到達不足)のも困ったものだが、やり過ぎるのも、それと評価は同じ程度である。何事も中庸、バランスのとれているのがいいのである。

2018.03.17

#74「温故知新 論語より」

故きを温ねて新しきを知る、以て師と為るべし

人の師となるには、古いことをよく調べた上で、さらに新しい知識や見解も導いていかなくてはならない。古来、人の師となるのは難しく、人格もさることながら、経験や知識が十分に身についていないと、相手を指導できない。昔からの伝統には優れたものが多いが、新しい時代の変化も吸収していく、変化に対する対応も身につけていかなくては、よき師・リーダーとはいえないであろう。

2018.03.2

#73「事上磨錬(じじょうまれん)」

王陽明の説く自己修養のあり方で、「事上」は‘行動や業務をしながら’という意味で、「磨錬」は磨きをかけること。つまり、日常の業務をしっかり行い、それを通じて修養することが真の学問であるという意味である。思想というものは、時に現実から遊離して一人歩きをし易いものであるが、本当の思想・理念というものは、決して日々の生活から遊離するものでなく、日常において自らの良知を致すことこそが、真実の意味における学問であり自己修養であると言える。実際に行動や実践を通して、知識や精神、人格を磨くことを忘れてはいけない。従って、日常の基本動作、仕事面、生活面、応待面においても事上磨錬することが大切である。先ずは、挨拶や身の回りの整理整頓、時間や期限、約束を守る等、当たり前のことを点検したい。

*良知を致す(致良知)とは? 
人が生まれながらに、もっている是非・善悪を誤らない正しい知恵を最大限に発揮すること(孟子説)

2018.02.28

#72「有名無力 無名有力」

大変、いい言葉である。その意味は、「有名であっても必ずしも力があるとは限らない。無名であっても実力のある人はいる」ということだが、TVやネット、雑誌等、メディアに出ている有名人であっても、必ずしも力があるわけではない。むしろ、周囲から持ち上げられて、交流会だ、飲み会だと常に忙しく、付き合いに忙殺され、何事にも煩雑になり、心を亡くしてしまうならば、真の自分を見失い、無力な人間になってしまう。それよりも、無名ではあるが「知る人ぞ知る」実力者は少なくない。そういう人物は、自分づくりを常に怠らず、人間を磨いて「事上磨錬」出来ている人である。探求心が旺盛で、努力し続けることが出来る。だから「有名で無力になるよりも、無名で有力」の方が善い。知識と虚栄心だけの上滑りの薄い人間ではいけない。従って、学び続けなければならない。人間は、死ぬまで成長するのだから。死んだときに、その人の本当の実力が証明されるのである。

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