「大學」の「正心」の章の中で、「心ここ(心が正しい状態に在る)にあらざれば視れども見えず、聴けども聞けず、食らえどもその味わいを知らず。之を身を修むるは、その心を正しうするに在りという」とある。
心というものは、しっかりと心に座っていなければ、目では見ていてもぼおっとして見えず、耳では聴いていても何か聞き分けられず、口に食べていてもその意味がわからないように正しい判断が得られない。このように正しい心を保ってこそ、自らを律し、修めることができるものである。
人間には、喜怒哀楽がある。それを完全になくして、心を無にして平静であれといっているのではない。そうではなくて、正しく喜怒哀楽を現し、心をいきいきと活かすことが肝要なのである。注意したいのは、「身に分ちするところ」即ち、「怒」である。どうでもいいことにいたずらに怒ってはいないだろうか、相手が怒ったからつられてこちらも怒っているようなことにはなっていないだろうか。そんな怒りは勧められるものではない。
しかし、世の中には怒らなくてはならないことがある。その時に、真剣に真面目に、一心不乱に怒っているだろうか。そんなときに怒らないのもどうかと思う。誰もがその怒りを見て、もっともだ、納得できると思えるような怒りがあるべき「怒」なのかも知れない。
このように、本当の意味で「感情が安定している」ことが大事である。この感情が安定しているというのは、感情を出さないということではない。反射的、反応的に、感情的になるということではなく、出すべき時に、喜怒哀楽としての感情を露呈するということである。その判断は、状況にもよるので難しいかも知れないが、日頃の修養と学問にて、高い見識力を磨いていくしかない。
だから「正心」とは、経営者、リーダーとして、心の安定(不安・不平を持たず、心が定まっている状態)を保つように努めよ」という事である。