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Message代表者メッセージ

2017.06.10

#19「正心とは(心を正しくするには)」

「大學」の「正心」の章の中で、「心ここ(心が正しい状態に在る)にあらざれば視れども見えず、聴けども聞けず、食らえどもその味わいを知らず。之を身を修むるは、その心を正しうするに在りという」とある。
心というものは、しっかりと心に座っていなければ、目では見ていてもぼおっとして見えず、耳では聴いていても何か聞き分けられず、口に食べていてもその意味がわからないように正しい判断が得られない。このように正しい心を保ってこそ、自らを律し、修めることができるものである。

人間には、喜怒哀楽がある。それを完全になくして、心を無にして平静であれといっているのではない。そうではなくて、正しく喜怒哀楽を現し、心をいきいきと活かすことが肝要なのである。注意したいのは、「身に分ちするところ」即ち、「怒」である。どうでもいいことにいたずらに怒ってはいないだろうか、相手が怒ったからつられてこちらも怒っているようなことにはなっていないだろうか。そんな怒りは勧められるものではない。

しかし、世の中には怒らなくてはならないことがある。その時に、真剣に真面目に、一心不乱に怒っているだろうか。そんなときに怒らないのもどうかと思う。誰もがその怒りを見て、もっともだ、納得できると思えるような怒りがあるべき「怒」なのかも知れない。

このように、本当の意味で「感情が安定している」ことが大事である。この感情が安定しているというのは、感情を出さないということではない。反射的、反応的に、感情的になるということではなく、出すべき時に、喜怒哀楽としての感情を露呈するということである。その判断は、状況にもよるので難しいかも知れないが、日頃の修養と学問にて、高い見識力を磨いていくしかない。

だから「正心」とは、経営者、リーダーとして、心の安定(不安・不平を持たず、心が定まっている状態)を保つように努めよ」という事である。

2017.06.9

#18「度量と才能」

人は才能があっても度量がなければ、人を包容することはできない。
反対に度量があっても才能がなければ、具体的な仕事ができない。
才能と度量とを二つ備えることができないとしたら、むしろ才能よりも度量のある人物がよい。
特に人の長となる者にはこのほうがよい。なぜなら、度量のある人は、自分は仕事ができなくとも、人を包容して才能のある人を適材適所に任じ用いることができるからである。
これを任用(任せて用いる)という。本来的な「権限委譲(Delegation)」とは「任用」することであり、任された本人が成長発展することを意味する。従って、「任用」と「使用」は違う。人や部下は、モノではない。使って用いる(使用)では、先の成長発展は見込めず、何ら動機づけにもならない駄目な任せ方となる。

自分の後継者を選び育成(サクセッションプランと遂行)する際には、この「度量と才能」「任用」を、十分、留意されたい。

2017.06.8

#17「宿命と運命」

宿命と運命は違う。
人間が浅はかで無力であると所謂、宿命(宿る命)になり、自分では変えられない。
一方、人間が本当に磨かれてくると運命(運んでくる命)になる。
即ち、自分で自分の「命」を創造することが出来る。目的を持って、大義と本質を見定めて主体的、前向きに努力精進するならば運命は、自分で変える事が出来る。

「人生2度なし悔いなく生きる」とは、このように「自分で自分の運命を切り開く」生き方である。

2017.06.7

#16「人の長所を視るべし」

自分は人の長所を見て、短所を視ないのがよい。短所を視れば、自分が彼に勝っているのでおごりの心が生じ、自分の修養に益するところがない。人の長所を視れば、彼が自分より勝っていることがわかり、これに刺激され、自分も励む気になるので、自分にとって有益である。
とかく凡人はこの逆で、人の短所ばかり視て悪口や批評をするが、相手の長所を視て、これに学び、これを賞め、これを励ますということがない。人の長所を視てこれを敬するということは、相手も我を敬して、我と結び合うことになり、この縁からいろいろ善いことが起こる(縁起)ことになる。
お互いに益することが多い。

論語に「君子は人の美を成し、悪を成さず。小人は是に反す」とある。
君子は人の美点長所を喜びこれを助けて世に願わすとともに、これを真似して自らを益することにつとめる。小人はこれと反対である。

事業経営者として、人と接する際は、特に注意されたい。No2のポジションの直近の部下や次世代のリーダーの長所を強みとして引き出すことが肝要である。

2017.06.2

#15 天地人三才(現実・実現・理想)

「理想」というものは、いかなるものも必ず「現実」の上に立つものである。
現実の上に立って、一歩一歩、理想というものを実現してゆくのである。
理想と現実に隔たりがあり、かけ離れてしまったり、矛盾が生じてしまうとそれは、単なる空想となり、そのひどいのが妄想である。理想が本当のものであればあるほど、現実の上にしっかりと立脚して進まなければならない。これを「実現」という。

現実・実現・理想―これを一貫したという意味で「王」という字ができている。
「王道」とはしっかりと現実に立脚して、現実に努力を積んで理想を実現していくということである。事業経営もこの王道でありたい。

2017.05.30

#14「得意と失意の時」

人は得意の時は口数が多く、失意の時は態度が動揺して落ち着きがない。これは皆修養の足りないことをあらわすものである。

人間は逆意(失意)の時に遭うと、しょげて心が動揺しやすいが、そうしたときにも惑わず泰然として運命に処してゆくのが、実は学問修行である。
#12に記した荀子に「それ学は通(栄達)のためにあらざるなり、窮して困しまず、憂いて心衰えず、禍福終始を知って惑わないためである」とあるのはそれをいっているのである。

明末の碩学、崔後渠(さいこうきょ)の「六然」に次のような名言がある。

自ら処する超然(ちょうぜん) 自分自身では何事にも捕らわれずに居る
人に処する藹然(あいぜん)  人とは気持ちよくつきあう
有事には斬然(ざんぜん)   何か事件の起こったときにはきっぱりする
無事には澄然(ちょうぜん)  無事の際はすみきって居る
得意には澹然(たんぜん)   得意の時にはあっさりして居る
失意には泰然(たいぜん)   失意の時にはどっしりと落着いて居る

これが修養した人間の態度というべきであろう。
この「六然」は、勝海舟を始め、古来、座右銘として尊重するものが多かった。

組織のリーダーたるものは、この「六然」をロールモデルとして、取り組み、実践されたい。

2017.05.29

#13「学問の本質とは(三学より)」

少にして学べば、則ち壮にして為すこと有り。
壮にして学べば、則ち老いて衰えず。
老いて学べば、則ち死して朽ちず(人間学言志緑 三学)

青少年の時代に志を立てて学問をすれば、壮年の頃になって必ず何事かを為すことができる。
壮年になってもよく学ぶものは、年をとっても衰えない。
老いてもなおかつ学ぶものは、死んでもその名が朽ちない。

若い時代に志を立てて真剣に勉強するということは、成長しようとする作物によき肥料を施すようなもので、それは必ず作物を繁茂させ、よき実を結ばせることになる。
古来から、偉人といわれる人は、必ずといってよいくらい、青少年時代に刻苦勉学した人たちばかりである。只、若いときには勉強した人でも、30、40歳代の壮年になると、事業が忙しくなったり、いろいろの地位に就いたりして、だんだん勉強しなくなる。しかし、壮年になってもなおよく学ぶものは、年をとってもぼけない。さらに、年をとってもなおよく学ぶものは、死んでもなおその名が朽ちない人になる。

このように、本当の学問には、終わりがない。死ぬまで学問を志し、勉強することが人物を創る。
事業経営者や組織のリーダーにとって、日々の熟考と実践が学習の連続であり、その中に、人を動かす要諦やビジネスの機会と成功の種が視えてくる。そして、トップとしての「決断と実行」を遂行するためにも、己を磨き、心の鏡を私欲で曇らせてはいけない(明鏡論)

2017.05.26

#12「学問の本質とは(荀子より)」

「それ学は通のためにあらざるなり、窮して困しまず、憂いて心衰えず、禍福終始を知って惑わないためである」とは、荀子の言葉である。

学問をするのは、いい大学を出て、一流企業に就職し、立身出世や生活するために行うのではない。そういう通過点における機械的、手段的、功利的なものではない。そのような知性、知識、知能というものもあるが、それは、実に低次元のものであって、本当の学問というものは、どんなに窮しても(困難な局面や、貧しい状況においても)苦しまない。どんな心配事があっても、そのためにへこたれない。神経衰弱にならない。心が衰えない、エネルギーを落とさないためである。
何が禍いであり、何が幸いであり、どうすればどう終わり、どう終わればどう始まるのかをよく知って惑わないためである。

学問するということは、単なる知識や技術を習得することではない。物事に対して正しい価値判断ができる見識を養い、それを実践することである。

学問の本質とは、
1.人間の本質的完成
2.人生の複雑な問題に直面しても、敢えて惑わないこと
3.自己の自主性・自立性を錬磨し自由を確立することであり、それによって発達する自己を通じて世のため人のために尽くさんがためである。

これが学問の本領であり、目的であるから、人物を志す経営者やリーダーは、常日頃から、骨力としての学問を怠ってはいけないのである。

2017.05.25

#11「方読経時 ノウハウ 活学」

優れた古典、指南書や考え方を学ぶときは、自分がこれまでに出会った人や事象と結び付けて
それを「いま」のこととして、受け止める工夫が必要だ。
いま現実に起きている事象に対処するときは、そうやって学んだことや先人たちの言葉などを結び付けてよりよい方法で受け止めるように工夫することである。
理論と実際を結び付ける工夫ができれば、学問は現実から遊離したりはしないのだ。
まさに、活学(活きた学問)とは、こういうことである。

すなわち、古典を読むということは、上部だけの薄っぺらい知識を覚えるということでなく、
「今の自分」に置き換えて、古典を通じて、確固たる自分の考えを持つということである。
そして腑に落ちたその考え方は、より実践的なものとなる。
これを知行合一(ちこうごういつ)と言う。

2017.05.24

#10「虚心坦懐 心をからっぽに」

前回、#9で、「批判できる人」は「先ずは相手の意見や考えを受け入れて、聴ける人」という話をしたが、違う切り口で、考えを深耕したい。

忠告を聞くときは、心をからっぽにしていよう。
忠告をするときも、心をからっぽにしておこう(どちらも素直な心が大事)

「虚心坦懐」という言葉がある。
「虚心」とは、ありのままを素直に受け取ること。
「坦懐」とは、わだかまりのないこと。
そのような気持ちでいるには、心をまずからっぽにしておくことである。
そうすると「自分が自分でなくなるのでは」という恐れがあるかも知れないが、大丈夫。
心をからっぽにしても自分は自分である。

すべては、ひとまず、虚心坦懐に。
そこから始まるのです。