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Message代表者メッセージ

2018.09.6

#90「社長が学ぶということ」

経営者が経営をし続けるということは、ある意味学び続けるということでもある。言うなれば経営道を歩み続けるとも言えるでしょう。

「学は及ばざる如くするも猶之をうしなわんことを恐る(論語より)」
(訳)「学問に終わりはない」として学んでいるが、この心掛けをなくしてしまうことが恐ろしい

経営者が学び続けることは自らの修養に努めることであり、人の上に立つ者としての責務である。
経営者の学ぶ姿勢が社員の共感を誘い集団のモチベーションを上げる。
経営者と社員が共感し協働し続けることが即ち社業の発展に繋がるのである。

2018.09.4

#89「修身斉家治国平天下」

「修己治人」を具現化するための実践的見解が「修身斉家治国平天下」である。
その意味は、己の身を修める(修身)ことによって、自分の家が斉(ととの)う(斉家)、家を斉えることによって、国が治まる(治国)、国が治まることによって、天下は平らかになる(平天下)

これを政治家や社長の立場として具体的に考えるならば、
天下(世界・世の中・市場)を平和にする為には、国(自国・自分の会社)を治めること、国をより善く治める為には、家(自分の家庭、家族・所属する部門、課、係、チーム)の人々の心を一つに斉(整)え、まとめること、家を斉える為には、自らを律して、己の身を正す、修めることである。ここで言う「修身(身を修める)」とは、自分自身を「修理」「修正」「修養」して常に正しい心と身を保つということである。

つまり逆説的に言えば、国や会社をまとめ上げる首相や大統領、社長やビジネスリーダーという立場であるのに、国民そして直属の部下や組織、家庭が、うまく行っていない、関係性が破綻している、自らの健康管理や時間管理、挨拶、礼儀、感情のコントロールや身の回りの整理整頓が、ちゃんとできないのでは、人として駄目であり、今のポスト(職位)は長続きしない、安定しないという警笛である。

だからこそ、人の上に立つ者、すべからく己の身をまず正せと、これが根本であり「修己治人」の意味するところである。

2018.09.2

#88「修己治人」

「大学」とは、一言でいうと「修己治人」であることが根本理念となる。すべからず人の上に立つ者、これから立とうとする者にとって最も大切な理念が「修己治人」である。
まず、人の上に立つ前にすることがある。それは己自身を修めることである。要は己自身を律し、己自身を高めるために修養に努めること。そうして己の人格に磨きをかけ、人格を形成することができて初めて人の上に立てる。

そして人の上に立たせてもらってからも、猶それまで以上に、己を律し、己を高め続ける努力をしつづけることが大切である。人の上に立つ者、すべからく己の身をまず正せと「大学」では何度も言っているが、これが根本であり「修己治人」の所以である。

2018.07.7

#87「今、なぜ古典なのか?古典を味読することの意義2」

めまぐるしく変転する現代社会を生き抜くには、時代を超えて変わらぬものに着目するのがよい。
変化だけに目を向けていては、翻弄されるばかりだからである。古典は、長い時を経てふるいにかけられた書物である。古典から人間と社会と学問に関する変わらぬ真理を吸収するのが、本当は最も早道なのである。
古典の読書には四つのメリットがある。(1)未来に対するビジョンが得られる(2)現代を読み解くキーワードが得られる(3)本質をつかむ訓練ができ、どうでも良いことに振り回されなくなる(4)過去の偉人の生きざまを追体験できる。
加えて、コミュニケーションに必要なツールも、古典は与えてくれる。他者を理解するには、自分とは異なるフレームワーク(考え方、価値観)がわからなければならない。こういうときに、古典は、時代を超え、地域を越え、自分と異なるフレームワークの存在を教えてくれる。すなわち、古典の味読を通じて、古今東西に見られる数多くのフレームワークを知っておけば、世界の理解がより容易になるのである。
 
尚、古典とは、賢者が残した言葉の集積である。混沌として先のみえにくい現代を力強く生き抜くためにも、賢人たちのこうした言葉をじっくりと味わうことが、大切である。しかしながら、古典を崇め奉って、感心ばかりして読むものではない。古典が教えてくれたことは、さっそく普段の仕事や生活で試してみると良い。こうして「古典を使う」ことによって、自分の好みと生き方がはっきりしてくるであろう。自分の好きなように古典を読んだり使ってみても、まったく構わないのだ。
*参照文献「座右の古典 鎌田浩毅 著 より」

2018.07.5

2018年度「公開セミナー&研究会」のご案内

弊社主催の公開セミナー&研究会「古典から学ぶ 事業経営とリーダーシップ実践」を毎月1回実施しております。皆様のご参加をお待ちしております。詳細は、以下の案内チラシをご覧ください。

2018年 LB公開セミナー&研究会 ご案内チラシ

2018.07.4

#86「今、なぜ古典なのか?古典を味読することの意義」

本物の古典を味読することによって、価値判断の拠り所をリーダーとして身に付けることができる。
どんな時代、状況であっても正しく判断できる「ものさし」を身に付けることであり、ブレない自分を創ることにつながる。そして、人間として絶対的な「主体性」が確立できる。
古典を単に知識として覚えるのではなく、古典を味読しながら、自分の意見を持つ事が大切である。そしてその意見も自分の私利私欲や損得勘定でなく、大義や道理、道義を踏まえた意見であることが肝要である。
また昨今は、インターネットやウエブサイト上にあふれる情報の中から、フェイクではない情報つまり、何が正しい情報か、本質的な情報を見極める力や洞察力を身に付ける必要がある。そのためにも教養としての本物の古典を自分の置かれた状況に置きかえて、何度も反芻して、味わって読むことにより、リーダーとして正しい判断が磨かれるのである。

2018.05.1

#85「大学の三綱領は、三位一体」

ここまで「修己治人」として「大人」になるための「大学」の結論を3つ解説したが、この3つは、バラバラではなく、同時に行われるもので、1つめの「明徳」を明らかにしてから、「民に親しむ」「至善に止まる」と順番におこなうものでもない。対内的に「明徳を明らかにする」対外的に「民に親しむ」ことが「至善に止まる」という因果関係になるということでもない。1つが3つであり3つが1つである。つまり三位一体に捉えて行われることが重要であり、3綱領を1つとして捉えて、心掛けて行きたい。

2018.04.25

#84「至善に止まる」

大学の三綱領の3つ目「至善に止まる」について解説したい。

ここでいう「善」とは、「善い・悪い」「あれはいい、あれは悪い」というように状況や相手によって変わるものではない。相対的なものでなく、絶対的なもので「不変的なルールに沿っているものが「至善」である。

「至善に止まるということを知る」とは、「何が正しいかということがはっきりとわかる」ということを意味する。

善悪と正しいは異なる。「善悪・いい悪い」は、相手と時において変化していく。そういう関係を相対的な関係という。それは「二」である。ところが至善に止まるというのは「一」であり「絶対」である。「至善」は一なる世界のものである。そこで「善に至って止まる」とは「一に至って止まる」と同じ意味で「正」という字につながる。従って正しいということは、道理・道義にかなっているかどうかで決定される。それ以外の基準はない。

天には天のルールがある。これを「道」という。地には地のルールがある。これを「理」という。これを併せて「天道地理」つまり「道理」という。人には人のルールがある。これを「義」であり「道義」という。これを踏み外したら人間失格というものが「義」であるから、正しいことは義にかなっている。これを「正義」という。この義にかなわないものを邪という。この義というものも「一」であり、絶対ということになる。つまり、「道理」「道義」は「一」であり、絶対であり、時代を超え、国境を越え、民族を越えて変わらないものである。

以上が、考え方になるが、より実践的に言うならば、
高い志・理想に向かって、努力精進し、一歩また一歩、確実に歩み続けることを意味する。理想追求の前進であり精進である。止まるとは、ステップ・バイ・ステップ(歩み続ける)であってストップという意味ではない。

2018.04.18

#83「民に親しむ」

大学の三綱領の2つ目「民に親しむ」について解説したい。

「親」は「したしむ」と読む。これは「浸す」から来たもの。「布を水に浸す。それで一体になる」という意味。相手や物と一体になること。明徳が明らかになると、世の上に立つ人であれば、直接関係のない人であっても、おのずから一体感を感ずるようになる。そういう直接に関係のないところまで一体感を感じて処置をしていくのが「親しむ」である。だから「明徳を明らかにして、民に親しむ」とは、別個のものでなく、1つのものである。
明徳が明らかになった状態はどういうものかと言うと、今まで別個だと思っていたものの間に通じる心が生じてくる。この通じる心が一体感という。この一体感を「仁」という。人偏に「二」と書くが、「二人の間に通ずる心」という意味になる。子供が生まれた途端に親心が生まれる。子供を育てていく、大きな根本的な働きになっている。このような親心を持てる人のことを「大人」という。父親として、奥さん、子供達と一体になるのが家大人。社長として社員と一体のなるのが社大人。部長・課長として部下やメンバーと一体になるのが、部・課大人。教師として生徒たちと一体になるのが学校大人。日本においては、国民と一体感を持ってこれに接しようとする範になる方が天皇である。だから天皇家は皇室に男の子が生まれたたら必ず「仁」の一文字がつけられる。生まれながらにして国民と一体になることを理想としている。

またこの「民」を人のみに限定せず、稲を作る農民は、稲がその「民」であり、家を作る大工は、家がその「民」であり、ピアノ演奏者であればピアノがその「民」であるとして、「民に親しむ」を、自分の仕事の対象となるものに親しむことにも拡大し、応用できるのである。
「親しむ」とは、相手や対象となる物と一体になること。「親」の反対は「疎」で「疎遠」「疎外」という言葉の通り「うとんずる」「とおざかる」の意味であり、相手から遠ざかり、離れることをいう。だから「民に親しむ」とは、自分の仕事の対象となるものから、遠ざかったり、離れたりせずに、そのものと一体になることである。そうでなければどんな仕事でもうまくいくものではない。

2018.04.17

#82「明徳を明らかにする」

大学の結論は、最初の三綱領で記されている。つまり、大人になるための「修己治人」をどのようにして実践するかをこの三綱領で述べている。先ずは「明徳を明らかにすること」を解説したい。

ここで言う「徳」とは、人として全人間活動の源泉となるもので、単なる「人柄」や「性格」を言うものではない。それは、「使命」であり「志」であり「良知良能」からくる「能力」であり、判断や実行する際の基となる源流としての「意志」「誠意」を指す。

「徳」には、見える徳と見えない徳がある。人間も木と同じである。根は地中にあって直接には見ることはできないが、非常に大きな役割を持っている。そういう見えない徳が、幹や枝や花になっていくと外に表れてくる。
内にあって大きな働きをしている徳のことを「玄徳」という。玄は黒いという字で、下に人をつけると「玄人」になる。玄ではなく、素をつけると「素人」になる。どう違うのか?それは、コツを会得しているかどうかの違いで、見えないけれども、そこにあるものを得ているということの違いである。やがて外にポッと現れてくる。枝が出て、花が咲く、一目で何の木かわかる。そして実がなる。そういう外に表れる徳のことを「明徳」という。人間が成長するのも木が成長するのと同じで、まず根を養わなければならない。そして芽が出てきたらそれを大事に育てていく必要がある。
まず目に見えない玄徳をしっかり養うことである。玄徳を十分に養って、明徳を発揮させる。この明徳を発揮させることを「明らかにする」という。
太陽と大地の調和によって万物は、生成しているので、人間には「大地の徳」と「太陽の徳」が生まれながらにして与えられている。従って、「玄徳は大地の徳」で「明徳は太陽の徳」といえよう。
太陽は、恒星だから24時間休みなく照り続けている。明徳は、我々の内にある小太陽のようなもの。我々、地球人は、太陽を見ることのできないときがある。それは太陽の反対側にいる夜、或は、日中でも、雲や霧、スモッグがかかったら、太陽を見ることができない。
それと同様に、明徳にも雲や霧がかかるときがある。それは、「我」や「私」が明徳を曇らせることになる(我が強い、私利私欲になるなど) だから、いつも自分の心の鏡を曇らせないように澄ましておかなければならない(参照#52明鏡止水)己自身の日々の修養が必要である。