Warning: Undefined variable $body_column_id in /home/xs108482/leadership-brains.co.jp/public_html/wp-content/themes/leadershipbrains/header.php on line 125
class="archive date paged paged-4 date-paged-4 page-message cat-message">

Message代表者メッセージ

2018.02.23

#71「人生指針 年代別テーマ 論語より」

吾れ十五にして学に志す
三十にして立つ
四十にして惑わず
五十にして天命を知る
六十にして耳順う(したがう)
七十にして心の欲する所に従いて、矩を踰えず(のりをこえず)

【訳】
わたしは15歳のとき、学問によって身を立てようと決意した
30歳で自立の基礎を固めることができた
40歳になって、あれこれ迷わずに、自分の進む方向に確信が持てるようになった
50歳では、仁(道徳)による政治を実現しなければならぬという、天命を自覚した
60歳になって、人の意見にすなおに耳を傾けられるようになった
そして70歳になると、自分の思うままに行動しても、道に外れるようなことはなかった

これは、孔子が晩年に自分の生涯を振り返って言った有名な言葉であり、聖人君子としての精進の一生であったことを物語るものである。我々に生きる勇気と生き方の指針を示してくれる言葉であり、特に、最後の「七十にして心の欲する所に従いて、矩を踰えず」の心境は、道徳の極致とされる言葉である。

自分も今年で54歳になるが、人生は、まだまだこれからが本番で、毎日が、勉強であり、修行であり、感謝しなくてはと反省する次第である。

2018.02.21

#70「一日は、一生の縮図である」

「いかに生きるべきか?」「たった一度の人生をどう生きるのか?」の問いに、
「人生2度なし、悔いなく生きる」と森信三先生は、言われた。

一瞬、一瞬の積み重ねが一日になる。そんな一日の積み重ねが一か月、一年、一生となる。だから、今を一生懸命に生きることが大事である。一日は、一生の縮図なのだから。

2018.02.18

#69「恥」と「敬」

「恥」という字が、’’耳の心’’と書くのは、愧ずかしいことをすると、耳たぶが赤くなるところから生まれてきた。人より劣っていることを日本人は恥じた。そして「なにくそ、自分も頑張るんだ」と発奮する気持ちを湧き立たせた。同時に自分よりも優れている人を見ると、相手を敬する気持ちを持った。この「恥」と「敬」が人間を伸ばしていく為に大きな働きをすることとなる。

「敬するというものは、より高きものに対する人間独特の心で敬するから至らない自分を省みて恥ずる。そして、恥ずるから慎む。戒める。この恥ずる、慎む、戒めるということが主体になる時に道徳というものができる(安岡正篤)」

2018.02.15

#68「知識の学問と智慧の学問」

知識の学問と智慧の学問は、違う。

知識の学問は、理解力、記憶力、判断力、推理力等、つまり悟性(物事を判断・理解する思考力、知性)の働きによって誰でも一通りできるものである。子供でも大人でもできる、善人も悪人もできる、程度の差こそあるが、誰でもできる、その意味では機械的な能力である。
しかし、そういうものではなく、もっと経験を積み、思索反省を重ねて、性命(生まれながら天から授かった性質と運命)や、人間としての体験の中からにじみ出てくるもっと直感的な人格的な学問を智慧の学問という。だから知識の学問より智慧の学問になるほど、生活的・精神的・人格的になってくるのである。

古典によって人間を磨き、それを経験につなげていく。そうやって知恵を身につけ、それを深めていくことで揺るぎなき人格が育まれていくのである。

2018.02.13

#67「精神を若々しく、健康に保つための3つの心得」

不健康、早く老いることの原因は、肉体より精神にある。健全な精神といつまでも若々しく、溌剌さを保つためには、次の3つのことを意識して実践することと安岡先生は言われた。

1.心中常に喜神を含むこと
2.心中絶えず感謝の念を持つこと
3.常に陰徳を志すこと

具体的に解説するならば、
1つ目は、どんなに苦しいことに遭っても、心のどこか奥の方に喜びを持つこと
*喜神の「神」とは、深く根本的に指して言った心のこと
例えば、誹謗中傷を受けて、怒り心頭あるいは落ち込んでいるようなときに、「いわれのないことではあるけれど、世の中にはこういう理不尽なこともある。これが自分を磨く材料になると思えば結構なことだ」と発想の転換を行えば、自分を省みて成長させることになるだろう。

2つ目は、有難いという気持ちを絶えず持つこと
「有難い」とは「有ることが非常に難しい」という意味であるから、我々が、今、いること、有ること自体が「ありがたい」ので、感謝しなくてはならない。

3つ目は、絶えず人知れぬ善いことをすること
陰徳を積めば精神が溌剌としてくるだけでなく、良い運が巡ってくる。人の為にすることがやがて自分に返ってくる。悪いことをすれば、これもまた自分に返ってくる。事の大小を問わず、誰も見ていなくても、機会を見つけて陰徳を積む(善いことを行う)ようにすることが大切である。

「我々は、’’老いる’’ということが必至の問題であるにもかかわらず、とかく老いを嫌う。老いを嫌う間は人間もまだ未熟だ。歳とともに思想・学問が進み、老いることに深い意義と喜びと誇りを持つようになるのが本物である(安岡正篤)

2018.02.11

#66「生涯の仕事」

現在の仕事を自分の生涯の仕事にすることが大切である。
もし、現在の仕事が生涯の仕事とするに足りないと思われれば、できるだけそれを生涯の仕事にするに足りるように研究するか、更なる創意工夫と努力をすることである。我々の心構えと努力いかんによっては、どんな小さなことでも、生涯の仕事とするに足りるものである。いかなる小事もトコトン深く入っていけば、無限に世界が開ける。
従って、自らの仕事を極めるべく、誠心誠意(誠の心を持って)取り組むことが肝要である。
*誠の心とは「自分に嘘をつかないこと」である。

2018.02.10

#65「天職と転職の違い」

「天職」と「転職」は違う。天職は「義」であり、転職は「利」であると言える。

「天職」とは、「天に与えられた職」と書くが、自らが使命感とやりがいを確信できる職業を指す。つまり、天から与えられた使命(天命)として、自他ともに認める適職である。これを見つけた人は、疲れを知らず、長時間働いても苦にならないので、やらされ感はなく、自らの意志と責任で業を成すことができる。しかしながら、最初から「天職」などはなく、今、やっていることから創意工夫して、創っていくものであり、探すものではない。

一方、「転職」とは、職業を「転々」と変えていくことで、それを続けてしまうとキャリアに一貫性がなくなり、人間的にも我慢がなくなり、「自分探し」の漂流者になってしまう。
大事なことは、「転職」ではなく、これまでの経験キャリアと専門性を持って、会社を変える「転社」をすることによって、能力は磨かれ、組織への貢献と成果が「天職」を創ることとなる。

自分の仕事にひたすら打ち込んで、それを楽しむという境地に到るまで続けられるとしたら、それは「天職」であり、最高の人生と言えるであろう。

2018.02.5

#64「事業家と夢想家の違い」

起業家の中には、夢想家がたくさんいる。なぜ彼らが事業家になれず、夢を見るだけの夢想家で終わってしまうのか。それは「知識がない(勉強が足りない)」「言葉だけで勇気を持った実行力がない」「戦略がない」からである。事業家は、いかに戦略を持って、描いた夢を実現するかが問われるが、知識がなければ戦略は策定出来ないし、知識を発展させて実行力を伴う見識(=胆識)に高めることも出来ない。これでは夢の実現など絵に描いた餅も当然である。また事業家は、ひとつの目的を達成して満足感を得て「よかった、よかった」で終わりにするのではなく、「世の為人の為」という大志を持って夢を膨らませ、夢を抱き続ける。その前提となるものが「野心」ではなく「志」であり「大義」を分かって決断し、実行できるのが、真の事業家である。

いかなる素質、才能があっても、志がなければ人物としては失格である。言葉を変えて言うなら理想だ。理想を持たない人間はこれはもうしようがない(安岡正篤)

2018.02.3

#63「野心と志の違い」

「野心」と「志」は違う。「野心」とは「私利私欲」の為に掲げる野望であり、自己満足的な目標である。他人と比べて自己の優位性を誇示するもので、物欲からくる願望である。
一方で、「志」とは「世の為、人の為」であり、着眼点は、目の前の損得からくるものではなく、将来に向けて、社会や世の中を良くするための大義である。そこには「無私の精神」が根底にあり、まさに西郷南洲が志として掲げた「敬天愛人」がそれである。

2018.02.2

#62「人間関係を円滑にする基本が礼である」 

前項で、「挨拶の重要性」を記したが、会社であれば社員同士あるいは、社員と会社の関係を円満に調和させ、秩序だったものにするのが礼である。朝、出社した時に「おはようございます」と挨拶が出来ないとか、廊下ですれ違っても頭ひとつ下げられないようでは困る。エチケット&マナーといった礼儀作法には人間関係を円滑にするという重要な役目がある。

「礼に始まり礼に終わる」というのは武士道の精神であるが、それは人間関係の基本的な在り方である。挨拶ひとつ出来ない者に、大きな仕事が出来るはずがないのである。