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2018.07.4

#86「今、なぜ古典なのか?古典を味読することの意義」

本物の古典を味読することによって、価値判断の拠り所をリーダーとして身に付けることができる。
どんな時代、状況であっても正しく判断できる「ものさし」を身に付けることであり、ブレない自分を創ることにつながる。そして、人間として絶対的な「主体性」が確立できる。
古典を単に知識として覚えるのではなく、古典を味読しながら、自分の意見を持つ事が大切である。そしてその意見も自分の私利私欲や損得勘定でなく、大義や道理、道義を踏まえた意見であることが肝要である。
また昨今は、インターネットやウエブサイト上にあふれる情報の中から、フェイクではない情報つまり、何が正しい情報か、本質的な情報を見極める力や洞察力を身に付ける必要がある。そのためにも教養としての本物の古典を自分の置かれた状況に置きかえて、何度も反芻して、味わって読むことにより、リーダーとして正しい判断が磨かれるのである。

2018.05.1

#85「大学の三綱領は、三位一体」

ここまで「修己治人」として「大人」になるための「大学」の結論を3つ解説したが、この3つは、バラバラではなく、同時に行われるもので、1つめの「明徳」を明らかにしてから、「民に親しむ」「至善に止まる」と順番におこなうものでもない。対内的に「明徳を明らかにする」対外的に「民に親しむ」ことが「至善に止まる」という因果関係になるということでもない。1つが3つであり3つが1つである。つまり三位一体に捉えて行われることが重要であり、3綱領を1つとして捉えて、心掛けて行きたい。

2018.04.25

#84「至善に止まる」

大学の三綱領の3つ目「至善に止まる」について解説したい。

ここでいう「善」とは、「善い・悪い」「あれはいい、あれは悪い」というように状況や相手によって変わるものではない。相対的なものでなく、絶対的なもので「不変的なルールに沿っているものが「至善」である。

「至善に止まるということを知る」とは、「何が正しいかということがはっきりとわかる」ということを意味する。

善悪と正しいは異なる。「善悪・いい悪い」は、相手と時において変化していく。そういう関係を相対的な関係という。それは「二」である。ところが至善に止まるというのは「一」であり「絶対」である。「至善」は一なる世界のものである。そこで「善に至って止まる」とは「一に至って止まる」と同じ意味で「正」という字につながる。従って正しいということは、道理・道義にかなっているかどうかで決定される。それ以外の基準はない。

天には天のルールがある。これを「道」という。地には地のルールがある。これを「理」という。これを併せて「天道地理」つまり「道理」という。人には人のルールがある。これを「義」であり「道義」という。これを踏み外したら人間失格というものが「義」であるから、正しいことは義にかなっている。これを「正義」という。この義にかなわないものを邪という。この義というものも「一」であり、絶対ということになる。つまり、「道理」「道義」は「一」であり、絶対であり、時代を超え、国境を越え、民族を越えて変わらないものである。

以上が、考え方になるが、より実践的に言うならば、
高い志・理想に向かって、努力精進し、一歩また一歩、確実に歩み続けることを意味する。理想追求の前進であり精進である。止まるとは、ステップ・バイ・ステップ(歩み続ける)であってストップという意味ではない。

2018.04.18

#83「民に親しむ」

大学の三綱領の2つ目「民に親しむ」について解説したい。

「親」は「したしむ」と読む。これは「浸す」から来たもの。「布を水に浸す。それで一体になる」という意味。相手や物と一体になること。明徳が明らかになると、世の上に立つ人であれば、直接関係のない人であっても、おのずから一体感を感ずるようになる。そういう直接に関係のないところまで一体感を感じて処置をしていくのが「親しむ」である。だから「明徳を明らかにして、民に親しむ」とは、別個のものでなく、1つのものである。
明徳が明らかになった状態はどういうものかと言うと、今まで別個だと思っていたものの間に通じる心が生じてくる。この通じる心が一体感という。この一体感を「仁」という。人偏に「二」と書くが、「二人の間に通ずる心」という意味になる。子供が生まれた途端に親心が生まれる。子供を育てていく、大きな根本的な働きになっている。このような親心を持てる人のことを「大人」という。父親として、奥さん、子供達と一体になるのが家大人。社長として社員と一体のなるのが社大人。部長・課長として部下やメンバーと一体になるのが、部・課大人。教師として生徒たちと一体になるのが学校大人。日本においては、国民と一体感を持ってこれに接しようとする範になる方が天皇である。だから天皇家は皇室に男の子が生まれたたら必ず「仁」の一文字がつけられる。生まれながらにして国民と一体になることを理想としている。

またこの「民」を人のみに限定せず、稲を作る農民は、稲がその「民」であり、家を作る大工は、家がその「民」であり、ピアノ演奏者であればピアノがその「民」であるとして、「民に親しむ」を、自分の仕事の対象となるものに親しむことにも拡大し、応用できるのである。
「親しむ」とは、相手や対象となる物と一体になること。「親」の反対は「疎」で「疎遠」「疎外」という言葉の通り「うとんずる」「とおざかる」の意味であり、相手から遠ざかり、離れることをいう。だから「民に親しむ」とは、自分の仕事の対象となるものから、遠ざかったり、離れたりせずに、そのものと一体になることである。そうでなければどんな仕事でもうまくいくものではない。

2018.04.17

#82「明徳を明らかにする」

大学の結論は、最初の三綱領で記されている。つまり、大人になるための「修己治人」をどのようにして実践するかをこの三綱領で述べている。先ずは「明徳を明らかにすること」を解説したい。

ここで言う「徳」とは、人として全人間活動の源泉となるもので、単なる「人柄」や「性格」を言うものではない。それは、「使命」であり「志」であり「良知良能」からくる「能力」であり、判断や実行する際の基となる源流としての「意志」「誠意」を指す。

「徳」には、見える徳と見えない徳がある。人間も木と同じである。根は地中にあって直接には見ることはできないが、非常に大きな役割を持っている。そういう見えない徳が、幹や枝や花になっていくと外に表れてくる。
内にあって大きな働きをしている徳のことを「玄徳」という。玄は黒いという字で、下に人をつけると「玄人」になる。玄ではなく、素をつけると「素人」になる。どう違うのか?それは、コツを会得しているかどうかの違いで、見えないけれども、そこにあるものを得ているということの違いである。やがて外にポッと現れてくる。枝が出て、花が咲く、一目で何の木かわかる。そして実がなる。そういう外に表れる徳のことを「明徳」という。人間が成長するのも木が成長するのと同じで、まず根を養わなければならない。そして芽が出てきたらそれを大事に育てていく必要がある。
まず目に見えない玄徳をしっかり養うことである。玄徳を十分に養って、明徳を発揮させる。この明徳を発揮させることを「明らかにする」という。
太陽と大地の調和によって万物は、生成しているので、人間には「大地の徳」と「太陽の徳」が生まれながらにして与えられている。従って、「玄徳は大地の徳」で「明徳は太陽の徳」といえよう。
太陽は、恒星だから24時間休みなく照り続けている。明徳は、我々の内にある小太陽のようなもの。我々、地球人は、太陽を見ることのできないときがある。それは太陽の反対側にいる夜、或は、日中でも、雲や霧、スモッグがかかったら、太陽を見ることができない。
それと同様に、明徳にも雲や霧がかかるときがある。それは、「我」や「私」が明徳を曇らせることになる(我が強い、私利私欲になるなど) だから、いつも自分の心の鏡を曇らせないように澄ましておかなければならない(参照#52明鏡止水)己自身の日々の修養が必要である。

2018.04.16

#81「大学とは」

今回より、弊社の経営理念であり、行動指針である「大学」について論じて行きたい。

大学とは、「修己治人の学」=自分自身をますます修めていくとともに、他者にも良い影響を及ぼすことができるように学んでいくことで「大人(たいじん)になるための学」である。
大人とは、日々自分の身を修め、更に世のため人のために尽くしてやまないような人物をいう。その大人となるのに最も手近な古典が大学であり「修己治人」の根本原理を示した学問である。そしてこの「修己」と「治人」とが離れることなく固く結びついてりっぱに果たされるべき、同時に実践していくことが、即ち「己を修めて人を治める」こととなる。

実際には、孔子の教えが書かれている本であるが、孔子の教えを曾氏が実行して、これは真実だと思い、孔子を代行してつくった本である。1番入りやすい孔子の入門書であり、同時に儒教の結論の書でもある。

2018.04.1

#80「誠」とは自分も他人も欺かないこと

忠義の「忠」は中の心という文字だが、本来、自分に対するもので「自分が自分を欺かない」という意味がある。そして何かをするときには自分の全力を尽くす。全力を尽くして自己を偽らないこと。そこから全力投球することを忠というようになる。自分だけでなく、人に対しても全力投球をする。

これに対して、「信」というのは他人に対するもので、自分がいったことは必ず守る。嘘偽りのないこと、二枚舌を使わないこと、これを「信」という。
自己に対しては「忠」、人に対しては「信」これはどちらも「誠」ということである。

2018.03.31

#79「維新と革命」

物が改まるのには、大きく分けると「革命」と「維新」の2つがある。「革」は「改まる」という意味で、「命を改める」というのは根本からやりかえること。それが革命、レボリューションである(命=働き) それに対して「維新」というのは、だんだんに日々変化していく。日に新たに、また日に新たにして、だんだん変化していくのを維新という。病気でいえば、「維新」は内服療養で徐々に治して行くやり方であり、これに対して「革命」は外科手術である。外科手術は患部をすべて取ってしまうために治りが早いが、必ず痛みや後遺症を伴うことが多い。
このことを個人の場合でいうならば、常に注意を怠らず、「其の命維れ新たなり」という健全な生活をしているのならば、大それた、革命的な大手術をしなくてもよい。
つまり、日々、意識して新しいことに取り組んで、少しの変化を起こして継続すれば、その結果、大きな変革になることを、リーダーは知るべきである。そのためにもリーダー自らが自己維新を心掛けることである。

2018.03.29

#78「新」とは創造変化していくこと

「新」という文字は、立ち木に労力を加えて切り倒して木材にすることが本来の意味である。
そのように変化創造していくことを「新」と呼んだ。つまり、世の中は絶えず変化して止まるところはないから「その変化に応じていくこと」そして「絶えず新たなる創造を繰り返していくこと」が大切である。
「自ら新たにする」とは、自ら創造することを失わないように常に創造するような人を作ることが大切である。人から強制されて仕方なく改めるのではなくて、自ら創造して改めるような人材にする。上に立つリーダーは、部下やメンバーにやる気を起こさせるようにしなくてはいけない。上からの指揮命令を受けなくても、自分から創造性を発揮するような部下やメンバーにするということである。

「作」は「つくる、おこる、おこす」という意味があり「作新」は、「新たにつくる、おこる、おこす」意味である。つまり「新しい」とは「常に生長し続けているもののみがもつことの出来る姿なのである。起業家や事業家、リーダーは、この「新」という言葉の意味を忘れてはならない。

2018.03.28

#77「物の本末、事の終始」

物の本末とは何か?
木に例えれば、根があり、幹があり、枝、葉がある。本は、根であり見えないが、末は、幹や枝や葉や花で外に出てきて見えるもの。人間も生まれた時から本末があり、本は徳性であって、知能や技能は、末となる。だから人間をつくるには、本になる徳性をしっかり養っていかなければならない。先ずは、徳性を涵養すること。社会生活を営んでいく上においては道徳・習慣というものが本となる。それに合わせて知能・技能というものを育てていく。
これが、逆、つまり、本が知能・技能で、末が徳性になると本末転倒ということになり、人物としては、大成できない。真のリーダーは、物事の本末を正しく捉えて、判断し、実践していかなければならない。

事の終始とは何か?
我々の生涯にも始めと終わりはずっとある。人生いろいろやることがある中で、何を先にし、何を後にするか自ら判断をして順序をつけて、それを実行する。そうすれば人の道から離れることはない、あるいは人の道を踏み外すことはないということになる。
仕事を進める上において、自分の使命、役割責任から鑑みて、最も重要なことは何か?を物事の本末と終始を考え続けていれば、間違うことはない。