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Message代表者メッセージ

2018.03.19

#76「謙虚に学ぶ」

コップに水が一杯に入っているのに、特上のお茶を注いでも溢れるだけで入らないし注げない。古い考えややり方を捨てないと新しいやり方は学べないし、吸収できない。
自分の心にある古いものを空けて心をからっぽにすることを「謙虚」という。自分がこれまで持っていたものを捨てて、無にしてしまうこと。人間は謙虚にならなければ、真理は学べないのである。
「謙虚」とは、頭が低くて、物腰が柔らかいことだけを言うのではなく、虚心坦懐(#10に詳細説明あり)に、あるがままに受け止め、受け入れる度量のある人を謙虚に学べる人と言える。

学は及ばざる如くするも 猶之をうしなわんことを恐る
「学問に終わりはない」として学んでいるが、この心掛けをなくしてしまうことが恐ろしい

2018.03.18

#75「過ぎたるは猶お及ばざるが如し」

物事はなんでもやり過ぎたものは、表面上は盛大に見えるけれども、とくに評価するほどのものでもない。「目標に到達しない」のと同じようなものである。
よく遣り手だと言われて鼻高々の人がいるが、遣りすぎると必ずその陰に、無理があったり、人を傷つけたり、隙が出来て、破綻の原因となる。やり足りない(到達不足)のも困ったものだが、やり過ぎるのも、それと評価は同じ程度である。何事も中庸、バランスのとれているのがいいのである。

2018.03.17

#74「温故知新 論語より」

故きを温ねて新しきを知る、以て師と為るべし

人の師となるには、古いことをよく調べた上で、さらに新しい知識や見解も導いていかなくてはならない。古来、人の師となるのは難しく、人格もさることながら、経験や知識が十分に身についていないと、相手を指導できない。昔からの伝統には優れたものが多いが、新しい時代の変化も吸収していく、変化に対する対応も身につけていかなくては、よき師・リーダーとはいえないであろう。

2018.03.2

#73「事上磨錬(じじょうまれん)」

王陽明の説く自己修養のあり方で、「事上」は‘行動や業務をしながら’という意味で、「磨錬」は磨きをかけること。つまり、日常の業務をしっかり行い、それを通じて修養することが真の学問であるという意味である。思想というものは、時に現実から遊離して一人歩きをし易いものであるが、本当の思想・理念というものは、決して日々の生活から遊離するものでなく、日常において自らの良知を致すことこそが、真実の意味における学問であり自己修養であると言える。実際に行動や実践を通して、知識や精神、人格を磨くことを忘れてはいけない。従って、日常の基本動作、仕事面、生活面、応待面においても事上磨錬することが大切である。先ずは、挨拶や身の回りの整理整頓、時間や期限、約束を守る等、当たり前のことを点検したい。

*良知を致す(致良知)とは? 
人が生まれながらに、もっている是非・善悪を誤らない正しい知恵を最大限に発揮すること(孟子説)

2018.02.28

#72「有名無力 無名有力」

大変、いい言葉である。その意味は、「有名であっても必ずしも力があるとは限らない。無名であっても実力のある人はいる」ということだが、TVやネット、雑誌等、メディアに出ている有名人であっても、必ずしも力があるわけではない。むしろ、周囲から持ち上げられて、交流会だ、飲み会だと常に忙しく、付き合いに忙殺され、何事にも煩雑になり、心を亡くしてしまうならば、真の自分を見失い、無力な人間になってしまう。それよりも、無名ではあるが「知る人ぞ知る」実力者は少なくない。そういう人物は、自分づくりを常に怠らず、人間を磨いて「事上磨錬」出来ている人である。探求心が旺盛で、努力し続けることが出来る。だから「有名で無力になるよりも、無名で有力」の方が善い。知識と虚栄心だけの上滑りの薄い人間ではいけない。従って、学び続けなければならない。人間は、死ぬまで成長するのだから。死んだときに、その人の本当の実力が証明されるのである。

2018.02.23

#71「人生指針 年代別テーマ 論語より」

吾れ十五にして学に志す
三十にして立つ
四十にして惑わず
五十にして天命を知る
六十にして耳順う(したがう)
七十にして心の欲する所に従いて、矩を踰えず(のりをこえず)

【訳】
わたしは15歳のとき、学問によって身を立てようと決意した
30歳で自立の基礎を固めることができた
40歳になって、あれこれ迷わずに、自分の進む方向に確信が持てるようになった
50歳では、仁(道徳)による政治を実現しなければならぬという、天命を自覚した
60歳になって、人の意見にすなおに耳を傾けられるようになった
そして70歳になると、自分の思うままに行動しても、道に外れるようなことはなかった

これは、孔子が晩年に自分の生涯を振り返って言った有名な言葉であり、聖人君子としての精進の一生であったことを物語るものである。我々に生きる勇気と生き方の指針を示してくれる言葉であり、特に、最後の「七十にして心の欲する所に従いて、矩を踰えず」の心境は、道徳の極致とされる言葉である。

自分も今年で54歳になるが、人生は、まだまだこれからが本番で、毎日が、勉強であり、修行であり、感謝しなくてはと反省する次第である。

2018.02.21

#70「一日は、一生の縮図である」

「いかに生きるべきか?」「たった一度の人生をどう生きるのか?」の問いに、
「人生2度なし、悔いなく生きる」と森信三先生は、言われた。

一瞬、一瞬の積み重ねが一日になる。そんな一日の積み重ねが一か月、一年、一生となる。だから、今を一生懸命に生きることが大事である。一日は、一生の縮図なのだから。

2018.02.18

#69「恥」と「敬」

「恥」という字が、’’耳の心’’と書くのは、愧ずかしいことをすると、耳たぶが赤くなるところから生まれてきた。人より劣っていることを日本人は恥じた。そして「なにくそ、自分も頑張るんだ」と発奮する気持ちを湧き立たせた。同時に自分よりも優れている人を見ると、相手を敬する気持ちを持った。この「恥」と「敬」が人間を伸ばしていく為に大きな働きをすることとなる。

「敬するというものは、より高きものに対する人間独特の心で敬するから至らない自分を省みて恥ずる。そして、恥ずるから慎む。戒める。この恥ずる、慎む、戒めるということが主体になる時に道徳というものができる(安岡正篤)」

2018.02.15

#68「知識の学問と智慧の学問」

知識の学問と智慧の学問は、違う。

知識の学問は、理解力、記憶力、判断力、推理力等、つまり悟性(物事を判断・理解する思考力、知性)の働きによって誰でも一通りできるものである。子供でも大人でもできる、善人も悪人もできる、程度の差こそあるが、誰でもできる、その意味では機械的な能力である。
しかし、そういうものではなく、もっと経験を積み、思索反省を重ねて、性命(生まれながら天から授かった性質と運命)や、人間としての体験の中からにじみ出てくるもっと直感的な人格的な学問を智慧の学問という。だから知識の学問より智慧の学問になるほど、生活的・精神的・人格的になってくるのである。

古典によって人間を磨き、それを経験につなげていく。そうやって知恵を身につけ、それを深めていくことで揺るぎなき人格が育まれていくのである。

2018.02.13

#67「精神を若々しく、健康に保つための3つの心得」

不健康、早く老いることの原因は、肉体より精神にある。健全な精神といつまでも若々しく、溌剌さを保つためには、次の3つのことを意識して実践することと安岡先生は言われた。

1.心中常に喜神を含むこと
2.心中絶えず感謝の念を持つこと
3.常に陰徳を志すこと

具体的に解説するならば、
1つ目は、どんなに苦しいことに遭っても、心のどこか奥の方に喜びを持つこと
*喜神の「神」とは、深く根本的に指して言った心のこと
例えば、誹謗中傷を受けて、怒り心頭あるいは落ち込んでいるようなときに、「いわれのないことではあるけれど、世の中にはこういう理不尽なこともある。これが自分を磨く材料になると思えば結構なことだ」と発想の転換を行えば、自分を省みて成長させることになるだろう。

2つ目は、有難いという気持ちを絶えず持つこと
「有難い」とは「有ることが非常に難しい」という意味であるから、我々が、今、いること、有ること自体が「ありがたい」ので、感謝しなくてはならない。

3つ目は、絶えず人知れぬ善いことをすること
陰徳を積めば精神が溌剌としてくるだけでなく、良い運が巡ってくる。人の為にすることがやがて自分に返ってくる。悪いことをすれば、これもまた自分に返ってくる。事の大小を問わず、誰も見ていなくても、機会を見つけて陰徳を積む(善いことを行う)ようにすることが大切である。

「我々は、’’老いる’’ということが必至の問題であるにもかかわらず、とかく老いを嫌う。老いを嫌う間は人間もまだ未熟だ。歳とともに思想・学問が進み、老いることに深い意義と喜びと誇りを持つようになるのが本物である(安岡正篤)