Warning: Undefined variable $body_column_id in /home/xs108482/leadership-brains.co.jp/public_html/wp-content/themes/leadershipbrains/header.php on line 125
class="archive paged category category-message category-1 paged-20 category-paged-20 page-message cat-message">

Message代表者メッセージ

2017.06.7

#16「人の長所を視るべし」

自分は人の長所を見て、短所を視ないのがよい。短所を視れば、自分が彼に勝っているのでおごりの心が生じ、自分の修養に益するところがない。人の長所を視れば、彼が自分より勝っていることがわかり、これに刺激され、自分も励む気になるので、自分にとって有益である。
とかく凡人はこの逆で、人の短所ばかり視て悪口や批評をするが、相手の長所を視て、これに学び、これを賞め、これを励ますということがない。人の長所を視てこれを敬するということは、相手も我を敬して、我と結び合うことになり、この縁からいろいろ善いことが起こる(縁起)ことになる。
お互いに益することが多い。

論語に「君子は人の美を成し、悪を成さず。小人は是に反す」とある。
君子は人の美点長所を喜びこれを助けて世に願わすとともに、これを真似して自らを益することにつとめる。小人はこれと反対である。

事業経営者として、人と接する際は、特に注意されたい。No2のポジションの直近の部下や次世代のリーダーの長所を強みとして引き出すことが肝要である。

2017.06.2

#15 天地人三才(現実・実現・理想)

「理想」というものは、いかなるものも必ず「現実」の上に立つものである。
現実の上に立って、一歩一歩、理想というものを実現してゆくのである。
理想と現実に隔たりがあり、かけ離れてしまったり、矛盾が生じてしまうとそれは、単なる空想となり、そのひどいのが妄想である。理想が本当のものであればあるほど、現実の上にしっかりと立脚して進まなければならない。これを「実現」という。

現実・実現・理想―これを一貫したという意味で「王」という字ができている。
「王道」とはしっかりと現実に立脚して、現実に努力を積んで理想を実現していくということである。事業経営もこの王道でありたい。

2017.05.30

#14「得意と失意の時」

人は得意の時は口数が多く、失意の時は態度が動揺して落ち着きがない。これは皆修養の足りないことをあらわすものである。

人間は逆意(失意)の時に遭うと、しょげて心が動揺しやすいが、そうしたときにも惑わず泰然として運命に処してゆくのが、実は学問修行である。
#12に記した荀子に「それ学は通(栄達)のためにあらざるなり、窮して困しまず、憂いて心衰えず、禍福終始を知って惑わないためである」とあるのはそれをいっているのである。

明末の碩学、崔後渠(さいこうきょ)の「六然」に次のような名言がある。

自ら処する超然(ちょうぜん) 自分自身では何事にも捕らわれずに居る
人に処する藹然(あいぜん)  人とは気持ちよくつきあう
有事には斬然(ざんぜん)   何か事件の起こったときにはきっぱりする
無事には澄然(ちょうぜん)  無事の際はすみきって居る
得意には澹然(たんぜん)   得意の時にはあっさりして居る
失意には泰然(たいぜん)   失意の時にはどっしりと落着いて居る

これが修養した人間の態度というべきであろう。
この「六然」は、勝海舟を始め、古来、座右銘として尊重するものが多かった。

組織のリーダーたるものは、この「六然」をロールモデルとして、取り組み、実践されたい。

2017.05.29

#13「学問の本質とは(三学より)」

少にして学べば、則ち壮にして為すこと有り。
壮にして学べば、則ち老いて衰えず。
老いて学べば、則ち死して朽ちず(人間学言志緑 三学)

青少年の時代に志を立てて学問をすれば、壮年の頃になって必ず何事かを為すことができる。
壮年になってもよく学ぶものは、年をとっても衰えない。
老いてもなおかつ学ぶものは、死んでもその名が朽ちない。

若い時代に志を立てて真剣に勉強するということは、成長しようとする作物によき肥料を施すようなもので、それは必ず作物を繁茂させ、よき実を結ばせることになる。
古来から、偉人といわれる人は、必ずといってよいくらい、青少年時代に刻苦勉学した人たちばかりである。只、若いときには勉強した人でも、30、40歳代の壮年になると、事業が忙しくなったり、いろいろの地位に就いたりして、だんだん勉強しなくなる。しかし、壮年になってもなおよく学ぶものは、年をとってもぼけない。さらに、年をとってもなおよく学ぶものは、死んでもなおその名が朽ちない人になる。

このように、本当の学問には、終わりがない。死ぬまで学問を志し、勉強することが人物を創る。
事業経営者や組織のリーダーにとって、日々の熟考と実践が学習の連続であり、その中に、人を動かす要諦やビジネスの機会と成功の種が視えてくる。そして、トップとしての「決断と実行」を遂行するためにも、己を磨き、心の鏡を私欲で曇らせてはいけない(明鏡論)

2017.05.26

#12「学問の本質とは(荀子より)」

「それ学は通のためにあらざるなり、窮して困しまず、憂いて心衰えず、禍福終始を知って惑わないためである」とは、荀子の言葉である。

学問をするのは、いい大学を出て、一流企業に就職し、立身出世や生活するために行うのではない。そういう通過点における機械的、手段的、功利的なものではない。そのような知性、知識、知能というものもあるが、それは、実に低次元のものであって、本当の学問というものは、どんなに窮しても(困難な局面や、貧しい状況においても)苦しまない。どんな心配事があっても、そのためにへこたれない。神経衰弱にならない。心が衰えない、エネルギーを落とさないためである。
何が禍いであり、何が幸いであり、どうすればどう終わり、どう終わればどう始まるのかをよく知って惑わないためである。

学問するということは、単なる知識や技術を習得することではない。物事に対して正しい価値判断ができる見識を養い、それを実践することである。

学問の本質とは、
1.人間の本質的完成
2.人生の複雑な問題に直面しても、敢えて惑わないこと
3.自己の自主性・自立性を錬磨し自由を確立することであり、それによって発達する自己を通じて世のため人のために尽くさんがためである。

これが学問の本領であり、目的であるから、人物を志す経営者やリーダーは、常日頃から、骨力としての学問を怠ってはいけないのである。

2017.05.25

#11「方読経時 ノウハウ 活学」

優れた古典、指南書や考え方を学ぶときは、自分がこれまでに出会った人や事象と結び付けて
それを「いま」のこととして、受け止める工夫が必要だ。
いま現実に起きている事象に対処するときは、そうやって学んだことや先人たちの言葉などを結び付けてよりよい方法で受け止めるように工夫することである。
理論と実際を結び付ける工夫ができれば、学問は現実から遊離したりはしないのだ。
まさに、活学(活きた学問)とは、こういうことである。

すなわち、古典を読むということは、上部だけの薄っぺらい知識を覚えるということでなく、
「今の自分」に置き換えて、古典を通じて、確固たる自分の考えを持つということである。
そして腑に落ちたその考え方は、より実践的なものとなる。
これを知行合一(ちこうごういつ)と言う。

2017.05.24

#10「虚心坦懐 心をからっぽに」

前回、#9で、「批判できる人」は「先ずは相手の意見や考えを受け入れて、聴ける人」という話をしたが、違う切り口で、考えを深耕したい。

忠告を聞くときは、心をからっぽにしていよう。
忠告をするときも、心をからっぽにしておこう(どちらも素直な心が大事)

「虚心坦懐」という言葉がある。
「虚心」とは、ありのままを素直に受け取ること。
「坦懐」とは、わだかまりのないこと。
そのような気持ちでいるには、心をまずからっぽにしておくことである。
そうすると「自分が自分でなくなるのでは」という恐れがあるかも知れないが、大丈夫。
心をからっぽにしても自分は自分である。

すべては、ひとまず、虚心坦懐に。
そこから始まるのです。

2017.05.23

#9「能容人者-批判できる人」

人の意見や考えを受け入れることができる人間になって、はじめて人を批判できる。
そういう人からの批判なら誰もが受け入れるはずだ。
人の考えや意見を聞かない人に、人を批判する資格はない。
そういう人からの批判は、誰も聞かないだろう。
先ずは、聴くこと。それが出来てないうちは、批判ばかりしてもしょうがない。

経営者や組織のリーダーとして、上に行けば行くほど、社内ではフィードバックされる機会が少なくなってくる。ましてNo2や側近がイエスマン或は忖度者ばかりであれば独断的なリーダーになり兼ねない。他者の話をじっくり聴けるリーダーでありたい。その上で、建設的な意見を述べて、どんな相手とも対話が出来て、論理と情理そして道理(道義)に基づいた判断をして、実行することが肝要である。

「現代の帝王学(伊藤肇 著)」では、トップに必要な3つの要諦として、1つ目に「原理原則を教えてくれる師を持つこと」2つ目に「直言してくれる側近を持つこと」3つ目に「善きメンターを持つこと(利害関係のない第3者に何でも話せて聴いてもらえること)」が挙げられている。
トップの舵取り、判断、意思決定を間違えると組織は致命的なことになり兼ねない。この3つは、とても大事なことである。

2017.05.20

#8「大臣之職トップの役割」

トップは、根本的なところだけに力を注いで、日常的な細かいところは、これまでの踏襲であってもよいだろう。
部下、周囲の社員、世の中の人たちが、言いたくても言えないことを敢えて言う必要があったり、これまでのトップでは、対応できなかったようなことを実行したりすることは、年に数回あるであろう。そこにトップの役割がある。

細かいことにこだわり過ぎて、あれこれとやり方を変えてみたりして、部下を混乱させたりすることは、やってはいけない。年数回の、大きな出番をしっかりやる。そのためには、小事にこだわり過ぎないこと。それがトップの役割である。

2017.05.18

#7「事業と人物」

単なる人材と人物は、異なる。
事業を営む指導者リーダーの「人物」としての内容を以下に説明したい。

古来から、人物といわれる人には、根本に気力・活力・気概・気魄・骨力というものがある。これはあらゆるものを産み出す創造的エネルギーであるから、現実に甘んぜず、必ず、実現しようとする何物かを発想する。即ち、理想、志を持つようになる。この理想を持った気力を「志気」という。この志気は、旺盛でなければならないが、現実のさまざまな、問題や矛盾抵抗にあっても、折れず、挫けずに一貫性、持続性、不変性をもたなければならない。これを「志操」という。そして、それを実践して締めくくれることを「節操」という。理想を持ち、一貫不変の節操を持って生きる人は、単なる認識ではなく、何が宜しいか(義とするか)何が宜しくないか(利となるか)という、高い価値判断が出来る。これを「見識」という。見識は勇気を持って実践する行為とならなければならない。その決断力、実行力を持つとき、これを「胆識」という。このように、人間が旺盛な理想精神を持ち、節操・見識・胆識ができて来ると、そこに人間の大きさが生まれて来る。多くの人を容れることが出来る。具体的には、人生のいろいろの悩み、苦しみを受け入れて、ゆったりと処理して行ける。これを「度量・器量」という。人間が、このように、洗練されてくると、その人らしい独特な品格、風格が出てくる。それは、人格の調和であるから柔らかに和やかに、なんとなくリズミカルになる。これを「風韻」「格調」という。即ち、格調の高い人になる。これは造詣の深い人にて、初めて到達する境地である。

以上が、「運命を創る 安岡正篤著」で説明されている内容であるが、事業経営者や組織のビジネスリーダーとして考察するならば、上記の内容に加え、皆を率いて、結果や成果を出せることが、株主やステークホルダーから求められる。しかも1度や2度の成果ではなく、持続して結果を出し続けて、周囲からリーダーとして認められ、信望が得られることとなる。